子供の頃から使っているお気に入りの椅子。
青いビロード生地が日光でかすれ、柔らかな色合いになっている。
元々は母から譲り受けたもので、その母が何処で手に入れたかは知らない。
今度お見舞いに来た時にでも聞いてみよう。
母が私を身ごもっていた時、この椅子に座って私の産着を縫い、産まれてからはこの椅子の上でミルクを貰い、もう少し大きくなった頃には、そこで絵本を読んで貰ったらしい。
もちろんその頃の記憶は無いが、産まれて来る前から私とその椅子はずっと一緒だった。
その椅子の声が聞こえるようになったのは何時からだろう。
毎日が最終電車で、ぐったり疲れた体を引きずるようにして帰宅していた数年前からだろうか。
目を閉じると私は子供に戻り、おしゃべりをするこの椅子とお飯事や、かくれんぼ、冒険ごっこをして遊ぶ。
忙しい仕事、面倒な人間関係に疲れた私が、一日の中で、唯一リラックス出来る時間だった。
そのうち、椅子だけでなく、身の回りのもの全てに命が吹き込まれ、私に話しかけて来る様になった。 何処までが現実で、何処からが私の空想なのか、今となってはわからない。
午後のまどろみの中、ベッドの下やクローゼットの脇から飛び出す椅子の国の妖精たち。 私の世界に彼らが入ってきたのか、彼らの世界に私が入り込んでしまったのか。 きっとおとぎの国のアリスはこんな気持だったにちがいない。
軽いノックの後、いつもの看護師が部屋に入ってくる。
「すい さん、今日の薬をここに置いておきますから、食事の後に飲んで下さいね」
白いテーブルに置かれた白い錠剤と、コップに注がれた水。
この薬一粒を飲むたび、椅子の妖精たちは消えていく
小さなサボテンの鉢植えが置かれた鉄格子の窓際、その椅子に座ると「....ちゃんすわってよ」と微かな声が聞こえた気がした。